弘前藩士と珈琲
1807年(文化4年)幕府の命で北方警備のため、弘前藩士が蝦夷地(現・北海道)の宗谷岬周辺に赴いた。しかし多くの藩士は厳冬下、ビタミン不足のため浮腫病※で亡くなった。実は、藩士が浮腫病で亡くなる4年前の1803年(享和3年)蘭学医の広川獬が著した「蘭療法」に、当時不治の病だった「水腫病=浮腫病」に珈琲が薬効があると書いている。もう少し早く知っていたら藩士が死なずにすんだかもしれない。1855年(安政2年)に再び藩士たちは蝦夷地の警備に赴き、この時浮腫病の予防薬として珈琲の配給がされた。
北方警備に派遣された兵のなかには、藩士だけではなく農民や漁師などの庶民も多く含まれていた。長崎出島の蘭学者や特権階級層を除くと、日本で最初に珈琲を飲んだのは弘前藩士だったともいえる。
※浮腫(ふしゅ)病とは、水ぶくれになり、顔がむくみ、腹が太鼓のようになって苦しみ死ぬという奇病。
藩士の珈琲の再現
藩士の珈琲を再現するにあたり、幕末当時の淹れ方を参考にしている。1857年(安政4年)蝦夷地勤務の幕臣に配られた仕様書*(蝦夷地御用留「二」)によると「黒くなるまでよく煎り、こまかくたらりと成迄つきくだき弐さじ程麻袋に入、熱き湯にて番茶の如き色にふり出し、土びんに入置、さめ候得ばよくあたため、砂糖を入用るべし」と記述されている。ドリップ方式の原形ともいえる淹れ方で、色や味も番茶に似た薄味の珈琲で、麻袋から通り抜けた珈琲の微粉末のとろりとした舌ざわりが、現在の珈琲とは少しちがう。
当時の淹れ方を再現するのは、薬として飲んでいた藩兵たちの一杯の珈琲のありがたさ、現代の人々に少しでも感じていただければと思い、藩士の珈琲の再現に至る。
*仕様書はこちらからご覧になれます。→(古文書)
1.焙煎
鉄鍋に珈琲の生豆を入れ、炭火で黒くなるまで煎る。
2.粉砕
すり鉢に焙煎豆を入れ、よくすり潰して粉にする。
3.抽出
土瓶にお湯を入れ、珈琲の
入った麻袋を浸し、振り出
しながら色の出ぐあいを
見ていく。
4.飲用
珈琲カップならぬ湯飲み
茶碗に注ぎ、お好みで砂糖
を入れて飲む。